「さっき、あいつに会ったんだ」 「あいつ?」 「向かいの、ナンバー1」 「ああ、一樹くんだっけ。僕まだ見てないんだ。どうだった?」 「……すごかった」 「えー? 何それ」 このクラブSOSの中の誰も勝てない。 男の目から見て、容姿がいいと思える奴は何人もいる。 ハルヒの目に適ったくらいだからそれなりにレベルは高い。 けどあいつとは比べ物にならなかった。 なんなんだあいつは。 頭から離れない。 数分、そんなに経ってないな、数十秒しか会っていないのに。 「キョンくん、何かあったのかいっ? 心ここにあらずだねっ」 「はっ……す、すみません、鶴屋さん」 「いいんだよっ。生きてりゃ悩みもあるさね」 「鶴屋さんは、向かいの店に行ったことありますか」 「クラブナイン? ははあ、さては期待の新人くんの動向が気になるのかな」 さすがは鶴屋さん、全部お見通しだ。 「この前行ったよ。雰囲気はぐっと大人っぽいんだけど、何よりも、 男のお客さんがめがっさいたからびっくりしたよーっ」 「そうなんですか。噂には聞いてましたが」 「皆、一樹くんを指名してるみたいで。忙しそうに立ち回ってたなあ。 あたしは遠目でしか見てないけど、きれいな子だった」 わけありっぽいけどね、と言ってワインを口にした鶴屋さんの目が、 一瞬だけ鋭く光る。 俺を見て笑った顔はいつも通りの明るさを取り戻していたが。 この人は、ただの金持ちの娘じゃない。 いくつかの会社の社長を兼任していて、 そのうちの一つには、 探偵会社が、あったりするのだ。 本気を出せば何でも知れる。 情報を得られるかどうかは金次第。 何かあれば特別料金で対応してあげるよ、と、 何度目かに会ったときに名刺をもらったっけ。 今、何でそれを思い出したのかは分からない。
「いちごのクレープが食べたーい!」 「はいはい」 「キョンくんは何にするの?」 「じゃあ、俺はチョコバナナにするか」 「わたしにも一口食べさせてね!」 久しぶりの休日は、妹の買い物に付き合ってやる。 昼間はほとんど話せる時間がなくても、 妹は何一つ文句を言ってこない。 遅くに起きて出かける俺に、 「いってらっしゃい、今日も頑張ってね!」 と笑って送り出してくれる。 朝比奈さんのおかげでもあるけどな。 毎日、学校帰りに面倒見てもらって。 妹もすっかり気に入って、あんなお姉ちゃんがいたらいいのに、と さっきも言ってきた。 そりゃあ、俺と朝比奈さんが……ってことか? 悪くない。 ちっとも悪くない。 あの癒される笑顔。 柔らかそうな体。 控室で淹れてくれる緑茶も、ほっとする。 今の俺とじゃ到底釣り合わない人で、 今後も手が届くとは思わんがな。 クレープを買いに行った妹を柱に寄りかかって待つ。 ふと、隣に視線をずらした。 「お、お前……!」 「え?」 すぐ隣に、あいつがいた。 「ええと……ああ、分かりました。クラブSOSのキョンさん、でしたね」 「一樹、だったよな」 「はい。覚えていてくださって光栄です」 「何やってんだ、こんな所で」 「クレープを買ってきてくださるのを待っているんですよ。人気のクレープ店のようですね」 視線の先には、妹が並んでいるのと同じ店がある。 妹の何人か前に、 女子高生や中学生ばかりが並んでいる列に似つかしくない、 スーツを着たサラリーマン風の男の姿があった。 「まさか、あいつか?」 「人を指すのは失礼ですよ。その通りですが」 「同伴かよ。客だろ」 「ええ。大切なお客さまです」 その男はクレープを二つ抱えて、照れくさそうに笑って駆け寄ってくる。 一樹は一礼するとそいつに近寄って、 嬉しそうに受け取って口をつけた。 一樹の私服姿は年相応だ。その辺の大学生と変わらない。 スーツの男と並んでいる様子は、 色眼鏡で見なくても不自然である。 だが一樹の笑顔を見ていると許せるような気になるから不思議だ。 「ん」 男の左手には指輪がある。 既婚者か。 休みの日に、ホストとデートしてる夫、ねえ。 嫁が知ったら泣くぜ。 「おまたせー!」 「おー」 「大人気だね、時間かかっちゃった」 一樹が少しだけ視線をこちらに投げてくる。 少なくとも同伴には見えんだろう。 妹はいまだに小学生に間違えられるくらい、見た目が幼い。 彼女だと誤解されるのも癪だな。 かといって今、あいつに声をかけることも出来ない。 同伴、か。 食事程度なら何度もしてる。 その後は、 期待されても気が進まないなら断っていいとハルヒに言われてる。 いわゆる枕営業ってヤツだ。 店のナンバー1や2、ランキングに入るホストなら、 そんなものは朝飯前だろう。 俺はどうにも気が乗らない。 とはいえ、毎晩のように指名されたら、 断り続けるわけにもいかず仕方なくやっちまったことはある。 翌朝の気分は最悪だった。 好きでもない女とやっても楽しくない。 どんなに顔や体が綺麗でも、 甘い声をあげられても、 尽くされても。 駄目なものは駄目だ。 あいつもやってるんだろうか。 ナンバー1になるくらいなら、朝飯前、か? 男が相手でも? 「キョンくん! わたし、この後は映画が見たいなあ」 「お、おう」 「近くのビルでやってるんだ。アクションもの!」 いかんいかん、今は妹に日頃の感謝の気持ちを表してる最中だぞ。 向かいのナンバー1ホストなんてどうでもいいだろ。 あいつが何をしていようが俺には関係ない。 「おや」 「げっ……」 「またご一緒になってしまいましたね」 その映画館でも、よりによって同じ映画で、 会ってしまった。 しかも隣の席。 おいおいおい。 偶然にも程があるぞ。 「一樹くん、友達かい?」 「はい。高校の時、部活が同じで」 「ど、どーも……」 さすがに隣で無視をするわけにもいかない。 妹はすぐに理解したらしい、 久しぶりです、と挨拶をして、ジュースを飲み始めた。 出来た妹をもって幸せだぜ、俺は。 高校の部活の友達、のふりをして、 映画の最中は話す必要もないし、 やたらと効果音ばかりでかい映画に集中すればいい。 その後はとても男二人では行かないような店に、 妹に連れて行ってもらおう。 普段なら居心地が悪くてたまらんが、 今日はここにいるほうが気分が悪い。 映画が徐々に盛り上がり始めたのは、 始まって20分ほど経ってからだろうか。 俺は隣に座る一樹の不穏な動きに気がついた。 見ない方がいいと分かっていても見てしまうのが人の悲しい性だな。 ちら、とスクリーンから一樹の方へ目を動かすと、 例の男に太股から、 ……その上の方まで、触られて俯いている姿が、 視界に入ってしまった。 即座にスクリーンへ視界を戻す。 妹は全く気付いた様子がない。 映画の中の女優や俳優のテンションは上がるばかりだ。 派手な爆発シーン。 息を飲むような脱出劇。 合間に繰り広げられるラブストーリー。 コミカルな場面では劇場に笑いも広がる。 しかし。 俺が気になるのは、 もはや映画ではなくなっていた。 「昨日はすみませんでした」 「……何が」 「気付いてらしたでしょう、さすがに、隣の席では」 「…………」 「友人が近くにいるという状況にますます興奮されたようで、 何度か止めたんですが、無意味でした」 「どうでもいい。お前が何をやろうとな」 「ははっ。手厳しいですね」 翌日。 下手すりゃ、 枕営業をした日よりも悪い気分で店に行った俺を最初に指名してきたのは、 一樹だった。 「へえー、あんたが森さんトコのナンバー1なの。 確かに綺麗な顔だわ。ねえ、こっちのお店に来ない?」 「あはは、森さんに怒られてしまいますから」 「うーん、惜しいわ。どうしてあたしのほうが先に見つけなかったのかしら」 店内はすっかり歓迎ムードで、 俺の不機嫌さなど誰も気付かない。 いや。 あいつくらいは気付いているか。 全員が一樹のところにやってきても、 あいつだけは寄りつかない。 「悪い、ちょっと席外させてくれ」 「具合が悪いんですか? どうぞ、僕は今日オフなので、 何時まででもいられますから」 とっとと帰れ、と言いたいのをぐっと堪えて控室に戻る。 一樹の相手は国木田とハルヒに任せた。 「……飲む?」 手渡されたのは、冷たい水。 そう、こいつだけは、流されない。 「サンキュ」 長門有希。 交わす言葉の数は多くない。 いまだに分からないことだらけだ。 そもそもどうしてこの店で働いているかも。 だが最近はただこうしてそこにいるだけで安心する。 常に冷静で自分のペース、 たとえ向かいのナンバー1が来ても気にせずに仕事をこなしている。 「長門は興味ないのか、あいつに」 「特にない」 「そうか。長門らしいな」 「……あなたは?」 「何?」 「興味、あるの」 で、 怖いのは、 いつも言ってくるのが、 的確な言葉だけってところだ。 興味? 俺が、一樹に? 悔しいが、ある。 語弊があるといかんので先に自分に説明しておくと、 昨日見た男と同じような興味では決してない。 いくら顔が綺麗でも男に興味などない。 そういう意味ではなく、 あいつの、 似合わないくせにホストをやって、 男とデートしてへらへら笑って、 俺にあんなところを見られたくせに今日は指名をしてきて、 男のくせに、 男にああされて、 何とも思ってなさそうに見えるのが、腹が立つ。 それに俺は前にもあいつに会ったことがある。 でもそれがいつ、どこでだかは思い出せない。 見たことがあると思い出したのも、 悔しいことに昨日の映画が終わって、 申し訳なさそうに笑って去っていくあいつの後ろ姿を見た時だった。 あらゆる事実で頭がこんがらがってわけがわからん。 水を一気に飲んで頭を冷やし、 深呼吸を繰り返した。 「そろそろ、仕事」 「そうだな。戻る」 「……大丈夫。いずれ思い出す」 「長門?」 呼びかけには答えず、 長門はシャンパンを持ってフロアへ行ってしまった。 あいつは時々、俺の心を読んだかのような発言をするからな……。 一樹のところに戻ると、ハルヒが真剣に引き抜き交渉をしていた。 相当気に入ったらしい。 ハルヒよ、お前もそういう男が好きなのか。 お前は若干、感性が男寄りの部分があるからな。 いつも朝比奈さんの胸ばかり触っているし。 古泉に惹かれるのも、それが原因の一つなのか? 「で、交渉結果は?」 「不成立。でもあきらめないわ。何度でも誘うつもり」 「熱心に交渉いただいて光栄です。ありがとうございます」 「キョンも分かるでしょ? この笑顔、この身のこなし。 完璧すぎて怪しいわ。あたしは怪しいものに目がないのよね」 何だそりゃ。 俺が含まれてないことを祈るぜ。 「いいお店ですね。どちらも潰れることなく均衡を保っている理由が分かりました」 「そうは言うが、最近はお前の活躍が目覚ましいらしいじゃないか」 「大したことはありませんよ。まだまだ勉強中の身です」 男とデートして、男に触られて、それ以上もやるのが、勉強か? ……長門と話してよかった。 あのまま席を外さずにこいつと話していたら罵倒するところだった。 「……僕はどうやら、あなたには嫌われているようですね」 「……何だって?」 「僕と二人きりになると目も合わせてくれませんし。つまらなさそうです」 「野郎と話して笑顔になれるお前の方が珍しいぜ」 「そうでしょうか? 谷口さんと話しているあなたは、少なくとも今よりずっと楽しそうでしたが」 「勝手に見てるんじゃねえよ。気色悪い」 「……これは失礼を」 ……全然駄目じゃないか。 長門、水くれ、 最高に冷えたやつを。 何に腹を立ててるんだ。 どうでもいいだろ。 どこかで会っていたとしても、 記憶の片隅にしかない人間だぞ。 そいつが誰と何をしたって俺には何の関係もない。 なのに何なんだ。 頭では分かり切ってるのに、 こんなに苛々するのはどうしてだ? 「お邪魔しました。そろそろ帰ります。すみません、あなたの気分を害してしまって。 悪意があったわけではないことを、分かってください」 「……ああ」 「それでは」 見送った後ろ姿を見て、また胸が痛くなる。 夜風が運んできた一樹の匂いは、 どこか懐かしい匂いがした。