「清楚なお嬢様設定、ねー」 「笑わないでくださいっ。私だって困ってるんですから」 「いーんじゃないの? 適当にやんなよ」 今度の涼宮ハルヒ監視ツアーの相棒、泰一郎さんは他人事のように笑って言い捨てて部屋を去って行きました。 もう、私が真剣に悩んでいるのに、失礼な人ですね。 私たちが上から与えられた今回の任務は、涼宮ハルヒとそれに近しい人物を呼び出して抜け出せない空間に閉じ込め、 動向を監視するというものです。私たちの所属するところは急進派と呼ばれていて、何かあれば好きなだけ暴れ回って いいと言われているから、私はここにいるのに。 何ですか、この設定は。 泰一郎さんはお金持ちのお坊ちゃんで、結婚相手を探すために豪華客船のクルーズ旅行を企画して、わがままで自分勝手な性格。 その豪華客船に彼女たちを呼び出します。 私は……泰一郎さんの元婚約者で、家が没落して婚約を破棄された揚句、もともと体が弱いから外にも出られなくて友達がいない、 薄幸の少女。没落してなお上品さを失わないお嬢様で、涼宮ハルヒ達の同情を買って船に乗り込むところまで計画されています。 全然性格が違うんですけど、って言っても、やれ、だけ。 これだから急進派の方たちは横暴で困ります。けど、せっかくのチャンスなのだから、やりますよ。仕事だし。 「メル友?」 「そー。涼宮ハルヒに近づくために、あの辺にいる人物と関係を持っておいた方がいいって」 「私がやるの?」 「君以外に誰がやると思うー?」 「……はあ。私がやればいいんでしょう」 「うん。これがアドレス。適当に人物情報検索して抽出しただけだから、名前も顔も知らないけど、うまくやってよ。 どうせ後で消す記憶だから」 「はいはい」 泰一郎さんと私しかいないなら、そういう任務は私の方が向いていると言わざるをえません。面倒くさいけど、これも 仕事ならやるしかないです。 渡された紙に書かれたアドレスに、支給品の携帯電話からメールをしてみました。簡単なアドレスだから、適当に打った ことにするみたいです。 『はじめまして、私、ミコトっていいます。体が弱くて外に出られないの。このメールが誰かに届きますように。そして、 もしよかったら、外の世界のこと、私に教えてください』 こんな胡散臭いメールに誰が返信するのかしら。って不安だったのだけれど、意外にもすぐにメールが返ってきました。 そしてそれからしばらく、私と彼のメールのやり取りが始まったのです。 彼の名前は知りません。 知っているのは、イニシャルがTだということ。 乗馬と時計集めが趣味で、家はお医者さんだそうで、とても育ちの良さそうな柔らかい文章のメールです。 そして毎日、学校から見た風景を写真に撮って送ってくれます。それは彼女たちが通っている学校。山の上にあるから、 どの写真も目を引く美しさなんです。 私が想像していたよりもT君は優しくて純粋な人でした。 人間がここまで純粋だということを、知らなかった。 私の周りの男性といえば、泰一郎さんみたいな人ばかりです。適当で、やる気があまり感じられなくて、面倒事はすぐに 人に押し付けて、言葉づかいも荒々しくて。 だから彼とのメールはとても新鮮です。面倒だと思っていたのがだんだんと楽しくなってきました。そして、毎日同じ時間に 来るメールを、心待ちにするようになりました。 T君。 彼も、豪華客船に乗ってくる。 これが任務だと忘れてはいないし、T君は彼女たちに近づくための手段でしかないけれど、それでも、もしかしたら彼にも 会えるかもしれないと思うと、わくわくしてきて、なんだか、うん、どきどきも、します。 「へえ、メル友ね。いいわ、あたしたちがそのTってのを見つけてあげる!」 あっという間に任務の日が訪れました。予定通り涼宮ハルヒに近づいて豪華客船に乗る招待券を手に入れた私は、 ループ空間に入り込むことにも成功しました。何度目かのループの時、ついにT君の話を切り出したんです。 涼宮さんは目を輝かせて話を聞いてくれて、SОS団の総力を持ってして、彼を見つけてみせると約束をしてくれたのです。 T君に会ったらどんな話をしよう。私がこの船に乗ってきたのを、彼は私の名前を知っているから、もう分かっているでしょう。 怒られるかな。体が弱いのに、手術を控えるのに外に出たりなんかして、って。それでもいいんです。T君と話が出来れば。 だって、どうせその記憶も消えてしまうんだから。 「連れて来たわよーっ! この人でしょ、ね?」 でも、なぜか連れてこられたのは泰一郎さんで、天変地異が起きてもこの人なのはありえないと分かっていたんですが、 彼女たちの手前喜んでいるふりをして……結局彼女たちは見つけられなかったから嘘をついてしまったと、謝ってきたのですが。 それで、そのループはおしまい。また、振り出しに戻る。 T君には会えないまま。 このまま振り出しに戻ると、T君の記憶は消さなくてはいけません。ループに気付かれるわけにはいかないし、これ以上、 巻き込んでは申し訳ないですから。 「さよなら、T君」 携帯電話のメールを削除するように、私はその処理を、行いました。 なのに。 『船の上はとても気持ちが良かったよ。ミコトさんが元気になったらクルーズ旅行なんてどうかな? きっと気に入るよ。 船で世界中を回るんだ』 「とても素敵ですね。船から見る夕焼けは綺麗なんでしょうね、海がオレンジ色に染まって。世界中の海と夕焼けを見て回りたいな。 T君が一緒にいてくれたら、もっと嬉しい」 私の携帯電話にはT君からのメールが届いています。任務が終わった今も。 泰一郎さんにはとても言えません。顔も知らないメル友の何がいいんだってまた馬鹿にされます。 泰一郎さんよりはずっといいですよっ。私の唯一の癒しです、T君の存在は。 だから記憶を消したのにまた同じ方法でメールのやり取りを始めました。彼は前と同じように優しくて、学校で起きた面白い話も 送ってくれて、メールを読みながらつい笑っちゃうの。 彼とメールをしていると、錯覚に陥りそうになる。私は本当に体の弱い女の子で、彼と同じ学校に通うはずだったけれど体調が 悪くて休んでいて、でも、励ましてもらえたから頑張って、手術も成功して、学校へ通えるようになる。それからはずっと、 一緒にいられる。毎日楽しい話をして、笑いあって、辛いことがあったら、励まし合う。 「なんて、夢物語、ですね」 似合わない感傷に浸っているのは、ついに任務の終了が知らされたから。 あの場でキョン君を殺さない決断を下し、現状維持、このまま観察を続けるため近くに潜伏していたのですが、一度戻って来るように 言われてしまったのです。こうなると次はいつ来られるか分かりません。下手をすると、何百年後。 人間がそんなに長生き出来ないことを、知っています。そのころにはT君はどこにもいない。 「今夜には出るから準備しといてよ」 「分かりました。この携帯電話は?」 「0時で解約。メル友がいるんなら終わらせとくこと」 あら、気付かれてましたか。変なとこ敏感だから、困っちゃいます。 とにかく今日でおしまい。 そう思ったら、こんなメールを打っていました。 「T君、おはようございます。私、T君の学校の屋上から見える夕焼けが見たいんです。今日はいい天気だから、船から見るみたいに、 綺麗に写るかな? もうすぐ手術だから綺麗な夕焼けを見て、元気を分けてもらいたいんです」 『ミコトさん、おはよう。今日は本当に晴天で、気持ちのいい日だね。今日の授業が終わったら、一番きれいな夕焼けの写真を送るよ。 楽しみに待っていてね』 メールを送った直後に北高に向かいました。忍び込むのは慣れています。人間の学校くらい、なんてことありません。 でも登校してきた学生の姿を見ていたら、制服を着て入ればよかったかなって思いました。前と同じワンピースで来ちゃった。 T君と同じ学校の制服、着てみたかったな。 ……なんだかまるで恋する乙女じゃない。私には似合わない。清楚なお嬢様でも、薄幸の少女でも、乙女でもない。 愛だとか恋だとか、全然分かりません。人間の感情の中でも最も理解しがたい感情です。楽しいとか嬉しいとか、 それはT君とのメールで教えてもらいました。 でも、恋って、愛ってどういうもの? 朝からずっと屋上で景色を見ていますが、ちっとも飽きません。太陽の位置が変わるたびに風景が違って見える。 グラウンドではチャイムが鳴ると生徒が入れ替わって、サッカーをしたり野球をしたり。あの中にT君がいるのかと目を 凝らしたけど、さすがに、見えませんでした。 お昼の12時を回った頃、屋上にもたくさんの生徒がやってきました。この恰好じゃすぐに不審者扱いされるので慌てて隠れて、 うっかり転んじゃいました。白い服なのにっ。 「古泉、ちゃんと食えよ。これ、オフクロがおかず入れ過ぎたからお前にも分けてやる」 「これはどうも、ありがとうございます」 「キョンのお母さんのお弁当はおいしいわよ! あたしのお墨付きっ」 「お前はいつも勝手に食べるんじゃないっ!」 「長門さん、どうぞ、お茶です」 「感謝する」 涼宮さんたちも顔を揃えてやってきました。昼食の時間なんですね。青空の下、広い屋上でご飯を食べるというのは人間ならではの 習性ですが、これは名案です。私も帰ったら試しましょう。 あの時一緒にいた他のお友達はいません。あの中の一人、名前は忘れてしまったけど、その人は、メールの文面にとてもよく似た 話し方をしていました。もしかするとT君なのかなって思ったけれど、名前に、Tはついてなかった。 T君の話が全部本当かどうかは分かりません。もしかしたらイニシャルも違うのかもしれない。聞けばよかったのに、なぜかあの時は 勇気が出なかったんです。 またチャイムが鳴ると、一気に生徒がいなくなりました。彼女たちも階段の方へ走って、屋上には静けさが戻る。 階段へ続く扉が開きっぱなしになっていたので閉めに行き、グラウンドの方へ振り返ると、 「この景色……」 見たことがある。 グラウンドが左前方に広がって、太陽がこの位置で、緑を光らせた木々がそよいでいる、この景色は。 昨日、T君が送ってくれた写真と同じ。 昨日彼はここにいたんだ。同じ時間に、きっと同じように振り向いて、写真を撮ってくれた。 「うう……何ですか、この、どきどきは……」 今ここにいるわけじゃないのに、ここにいた、その証拠を見せつけられただけで、動悸が激しい。人間のような心臓はないのに 思わず胸を押さえました。 T君。会いたい。 どうしよう、すごく、会いたい。 夕陽が街中をうっすらと染める時間に差し掛かると、自然と、立ち上がって柵に手をかけていました。 なんて美しい景色なんだろう。人間の世界には、どうしてこんなに、涙が出るくらい綺麗なものがあるんだろう。 T君は毎日ここに通っている。うらやましい、です。 やがて生徒の声が校内に響き渡り、最後の授業が終わったのだと知りました。時計を見ても、もうすぐ、T君からメールが来る時間。 変な汗が出てきました。T君に会って臭いって思われたら大変です。泰一郎さんの鞄から拝借してきた制汗スプレーを遣って準備を 整えて、柱の陰に、身を潜めます。 すると。 少ししてから、ついに、扉の開く音がしました。 震える手で、まだ鳴らない携帯電話を握りしめる。 「いい天気でよかったなー」 男の子の声。ちょっとだけ見える後ろ姿は、一人だけ。誰かに話しかけているではなく、独り言を呟いたようです。 この声、どこかで聞いたことがある。やっぱりあの時船に乗っていたうちの誰かなんでしょうか。 「おし、っと」 凝視していると視線で気付かれる可能性があるので、ぐっとこらえて我慢して、携帯電話が鳴るのをひたすら待ちました。 あの人かな。 あの人なのかな、T君。 飛び出したいけど、まだ駄目。確信するまでは我慢。 数分後、ついに、私の手元に、メールが届きました。 画面には、今見ている夕焼けと同じものが広がっている。 『ミコトさん、見て。ミコトさんを全力で応援してるみたいに、今日の夕焼け、すっごく綺麗だよ』 あの人だ。 今ここにいる人がT君なんだ。 「私も、見てます」 返信メールを送ってから歩き出す。 T君は空を見上げてて、こちらからは背中しか見えません。やがて震えた携帯電話を開いてメールを読んで、首を傾げています。 そして、私の足音に気付いて振り返る。 ああ、このひとは。 私は、このひとを知ってる。 「おわっ! だ、誰、誰だ?」 そうだったんだ。 あなただったんですね、T君は。 私のこと、忘れちゃったよね。私が記憶を消したもん。 でも会ってたんです。船の上で、それに本当はもっとずっと前から、メールをしていたんです。 あなたの優しいところ、私は全部知ってます。 そう、確か、キョン君がこう呼んでました。 「谷口君」 「俺を知ってんの?」 「夕焼けの写真、ありがとうございました」 「へ!? ま、まさかミコ……、いやっ……か、勘違いじゃねー? 俺、別に、メールしてねえしっ」 「メールだなんて、まだ言ってませんよ」 「げっ!」 慌ててる様子があまりにおかしくて笑ったら、T君、ううん、谷口君も笑ってくれました。 「なあ、大丈夫なのか? こんな、山の上まで来て」 「大丈夫です。谷口君に会えたから」 「お、俺なんて……。あ、あのさ、ごめん」 「どうして謝るんですか?」 「俺、嘘ついてたから」 谷口君はいっぱい、話してくれました。趣味が時計集めとか、乗馬とか、本当はしたことないってこと。 家がお医者さんだと言ったのは本当だけど、全然お金持ちなんかじゃなくて昔から贅沢をした記憶はないってこと。 風邪でも平気で学校行けって言うんだぜ、って。 話し方もメールの印象とは全然違うからびっくりしていたら、お友達の話し方を真似して、いい印象を与えるように丁寧に メールを書いていたって教えてくれました。きっとそのお友達が、あの時一緒に船に乗っていた人ですね。 「ほんっと、ごめん!」 「いいんです、私、気にしていません」 「マジで?」 「はい」 だって、私のほうがずっと、大きな嘘をついています。 そしてそれをあなたに教えないまま、お別れをしなきゃいけないんです。 「谷口君」 「ハ、ハイ」 「私、お別れを言いに来たんです」 「えっ?」 「手術頑張るって、言いましたよね。遠い所へ行かなきゃいけないんです」 「め、メールも出来ないのかっ?」 「うん。病院の中だし、手術が終わってもしばらくはリハビリで出られないから、今日の夜に解約するつもりなんです」 「そう、なのか……」 がっかり、してます。見るからに落胆してる。私の言葉で。携帯を握りしめる手が震えて、目線は下を向いている。 そんな谷口君を見ていたら、胸の奥が痛くなる。 ここに、心臓はないのに。 じゃあ、何が痛いの? 「なら、手術が終わって、リハビリも終わって、退院出来たらまたメールくれよ! そしたら俺、ミコトさんが行きたいところ、 どこへでも連れて行くぜっ」 「谷口君……」 「あ、俺でよけりゃ、だけど。全然釣り合ってねーし、ミコトさんがこれで終わりにしたいって言うならしつこくしないからさ、 気軽に言ってくれよな」 こんな時でも、あなたは優しいんですね。わざと明るくふるまったりして、そういうところ、メールの文面とは違っても、 間違いなくT君です。 終わりにしなきゃいけない。私がここでさようならって言えば、谷口君は私のことなんて忘れてくれる。私が記憶を消すまでも ありません。励まさせるだけ励まさせておいて、用がなくなったらいなくなって。ひどい女だった、って、 ……思って欲しくない。 「ごめんなさい……ごめんなさい」 私のわがままに付き合わせて、私の任務に付き合わせて、あなたの優しさを利用して、ごめんなさい。 最後まで付き合ってもらっても、いいですか? 「ちょっ……ミコト、さ、何っ」 「ミコトって呼んでください、お願いします」 「み……ミコト」 「うん……」 「わっ……!!」 人間たちは、男女で結婚という名の儀式を行うらしいよ。人間について調べていた泰一郎さんが言ってました。 その儀式では愛し合った二人が永遠の愛を誓って、口付けを交わすんだそうです。将来そう約束した相手を婚約者と呼び、 私は泰一郎さんの元婚約者として涼宮さんたちに近づきました。 永遠の愛なんて、ちっとも理解できなかった。 誰かに恋をする感覚なんて、想像もつかなかった。 でも今、分かりました。 もう会えないかもしれないって思ったら、谷口君が私を想ってくれていると感じたら、胸が痛くなるのが、そうなんですね。 私は今だけ、三栖丸ミコトでいたい。人間としてこの地にやってきた私としてあなたに気持ちを伝えたい。 あなたに迷惑をかけると分かっていても、抑えられない。 谷口君の腕を引いて、床に押し倒しました。痛くないように、なるべくゆっくり。谷口君はこんなことされるなんて予想も していなかったみたいです。びっくりして、口をぱくぱくしながら、私を見上げています。 戦闘実習を繰り返してきたからどんな反撃にも対処は出来ます。けれど、谷口君はいきなり押し倒されたのに、私を殴りも 蹴飛ばしもせず戸惑った顔で見てくるだけだから、どうしたらいいか判断が出来ません。 「谷口君」 なぜか無性にそうしたくて頬に触れたら、腕に触れた時よりも暖かくて、そのまま自然と、唇を寄せていた。 「そ、それ以上はまずいんじゃっ」 「でも……触ってほしいんです」 「ひー! 俺っ、み、ミコトに、触れるような、男じゃねーのにっ!」 「そんなことない。谷口君がいい」 「みみみ、み」 「谷口君がいいんです」 ミコトさんて、お嬢様ってイメージがあるなあ。 最初のメールで、谷口君はそう書いていました。実際の私はそんなじゃないけど、谷口君のイメージに合わせてこの服を選んだんです。 白いワンピースだと清楚なイメージがあるんでしょう? すぐに汚してしまいそうで気を遣いました。 谷口君になら、汚されてもいいよ。何をしてもいい。 谷口君の手を、私の胸に当てる。まだずきずきと痛いけど、体温が伝わってくるとその痛みも和らいでいく。 その代わりに体の奥が熱くなって、たくさん、唇を重ねた。 私を忘れないでください。 あなたの記憶を消さなきゃいけないけど、忘れないで。 矛盾しているよね、私が、そうするのに。 名前を、声を、姿を忘れてもいいから、 この熱さだけでも、覚えていてください。 「で。結局会えたの、例のメル友には」 「秘密です」 最後のメールを送って、携帯電話を破壊しました。ちょうど0時。この瞬間に解約されているはずです。 そして同時に彼の記憶も。 「どうでもいいけど。さ、行くよ」 「はい。行きましょう」 さようならT君。 私は、あなたの全部、忘れないよ。 楽しいことも嬉しいことも、切ないことも悲しいことも、恋も愛も、あなたが教えてくれたこと、全部。 「うーん、うーーん」 「どうしたの谷口。似合いもしない真面目な顔しちゃって」 「あと、気色悪い声を出すな」 散々な言われようだぜ、いつものことだけどよ。 思春期の悩みというものに対して、もう少し暖かい声のかけ方が出来ないものだろうか、この友人たちは。 「悩みって言っても、どうせいつものでしょ?」 「今度は一日何人に振られたんだ」 「ちげえって! 昨日はナンパしてねーし」 「えー、もしかして真剣な告白したの?」 「それも、違う」 「なら何だよ」 結論を急かす二人に、とりあえず説明を省いてメールを見せた。 事の発端は昨日の夜。普段は0時になる前に寝るんだけどさ、昨日はたまたま起きてたんだよな。寝付けないっつーか、 もやもやして。そしたら見たことのないアドレスからメールが来た。0時ぴったりに。 『谷口君、ありがとう。あなたに会えてよかった』 いたずらメールかと思うだろ? でもさ、俺の名前知ってるんだぜ。北高の屋上から撮った写真がついてて、いたずらとか、 悪意があるようには思えねえんだ。 「返信してみたの? このメールに」 「そりゃな。でも届かなくてさー。この宛先は見当たりません、ってエラーメール」 「この学校の誰かのいたずらだろ。屋上の写真なんて、北高生以外は撮れないだろうし」 「でもよー。なーんか、気になるんだよな」 「いたずらならもっとえげつないこと書きそうだしね。会えてよかったって書いてるけど心当たりは? 昨日、谷口、用があるって 言って屋上に走って行ったよね」 「そうだっけ?」 昨日、俺が、屋上に? んー、思い出せん。昨日のことなのに覚えてない。あれ、俺、やばくね? まだ高校生なのに昨日の行動が 記憶にございませんとか、病気? 「大丈夫だ。お前は最初から馬鹿だから」 「うんうん」 「励ましてくれてありがとう」 こいつらの挑発にいちいち付き合ってる暇はない。 心当たりも、どこにもない。最近ナンパに出かけても、声をかけて一分話が出来ればいいくらいだし、デートまでこぎつけたのは 遠い昔の思い出になってる。北高生なら尚更だ。もうクラスのかわいい女子にはあらかた振られたし、最近は忙しくて他のクラスや 学年に手を出してない。 ん? 忙しい? 何で忙しかったんだっけ? テスト時期でもなけりゃ、学祭も体育祭もまだ先だ。涼宮のあれに付き合わされはしたが……。 「そういえばさ、涼宮さんはまた招待券とか当ててくれないかな。この前の豪華客船は楽しかったよ」 「あんなことが何度もあったら困るぜ」 そう、それ。豪華客船。涼宮が商店街の福引で招待券を当てたとかで、余っているからと俺と国木田も一緒に乗り込んだ。 あんな船に乗る機会はめったにねーし、いい経験だったけど。俺もキョンと同意見で、面倒な事態に毎度巻き込まれるのは遠慮したい。 けど、あの船に、かわいい子、いたよな。名前なんつったっけ。朝倉に匹敵するくらいのレベルで、清楚なお嬢様って感じでさ、 話し方も丁寧だし、ああいうタイプ、守ってあげたくなるっていうかさ。 「谷口に守ってもらってもねえ」 「はは」 「なんだよー、いいだろ、夢見るくらい。今どうしてんだろうなー、あの子」 「連絡先聞いてないんだ。谷口らしくないね」 「んー、なんで俺、聞かなかったんだっけ」 「さあな」 「名前も思い出せないんだよ。キョン、お前、話してなかったか? 涼宮が連れてきたんだよな」 「いや、わからん」 即座にきっぱりと言われた。なんだよ、少しは考えてくれって。まあ、お前が基本的に、あいつにしか興味がねえのは知ってるけど。 授業中、黒板の内容は身に入らず、ずっとメールが気になって考えてた。何か忘れてるような気がする。 と同時に、船の上で会ったあの子の名前も、つい最近の出来事なのに思い出せない。どっちか一つだけでも思い出せればすっきり しそうなのに。どうも俺の記憶力は、勉強だけじゃなくてプライベートでも頼りないらしい。 そうこう考えてるうちに授業が終わって、昼飯を食って、午後の授業は熟睡して、掃除当番は今日はナシ。とっとと帰ろうと 思っていたはずが、足は自然と屋上へ向かってた。 「あれ。何で俺、ここに来てんだろ」 まあいいか。たまには屋上からの景色を眺めて、ここが山の上だと実感してやろう。 今日も夕焼けがよく見える。 ……この景色、昨日も見たな。 ふと思い出した。携帯電話の電源を入れて、写真のデータを保存しているところを見ると、確かに昨日の日付でここから夕焼けを 写した写真がある。国木田の言う通り、昨日屋上に来たのは間違いないらしい。 ここで何をしたのかだけが思い出せない。夕焼けが綺麗だから写真を撮りましょうなんて柄でもねえし。 自分のためじゃなかったら、 誰かのため? 「わっ」 突然、グラウンドの方角から強い風が吹いてきた。砂が飛んでくるから避けようと振り返ると、屋上の扉のところに誰かいる。 ふたつに結んだ長い髪、白いワンピース。 あれは、あの船の上で会った…… 「いってー!」 げ、砂、目に入った。こんな時に。袖で擦って取り除いてもう一度目をやると、そこに彼女の姿はなくなってた。 代わりに違う女子がいる。涼宮の団の、長門だ。 「あれ、長門、さっきからここにいた?」 「……」 「俺の見間違いかな。違うように見えたんだけどさ」 「部室へ」 「へ?」 「部室へ」 長門はそれしか言わない。こいつとは会話のキャッチボールが出来ないのは分かってる。部室に行けってことな、それ。 涼宮の呼び出しかよ。帰りてーけど、無視して帰ったら長門の顔が立たないよな……。仕方ねーから付き合うか。 SОS団の部室に向かう廊下も、夕陽色に染まってる。部活に入ってない俺は、こんなに遅くまで学校にいることは滅多にない。 あるとしたらこうやって涼宮にとっ捕まった時だ。けど、この時間の学校は悪くないなと思う。駅までの長い道を歩くのも、結構、 好きだったりする。 「忘れ物、しちゃったんです」 もうすぐ部室に着く、その階段の途中で、女子の声が聞こえた。続けてキョンらしき声が耳に届く。 そして、駆けてくる足音がだんだん近づいてきた。 「あっ……!」 「あぶねえっ!」 「!!」 階段の上から、天使が落ちてきた。 ……ように見えただけであって、こんなことを言うとまた国木田やキョンに頭の大事なところを打ったんだなとバカにされる。 比ゆだぞ、比ゆ。 そう見えたんだ。真っ白なワンピース着てたから。 躓いて足を踏み外した彼女を、映画の主人公のごとく華麗にキャッチ……は出来ず、体で受け止めた。正面から受け止めたせいで、 踊り場に倒れ込んだ今、俺は、まるで彼女に押し倒されている姿勢なわけだ。 男にとっては夢のような出来事に感激する前に、強烈な既視感を覚える。 これ、昨日も、あった。 「ご、ごめんなさ……い」 「いや、へ、平気」 「……谷口君」 「え?」 俺を知ってる。見ると、やっぱり船で会ったあの子だ。どうしてこんなところにいるのか分かんねーけど、やべー、 近くで見るとやっぱりかわいい。 そうだ。確か、 「三栖丸さん、だったよな」 「うん」 思い出した。けど名前の他にも、彼女のことで思い出したいことがあるんじゃないか? 「私、最後のメールも消さなくちゃいけないんです」 「最後のメール?」 「でも、また会えて嬉しい。大好き、谷口君」 「へ!?」 あれ、俺、夢見てんの? 三栖丸さんの話についていけてねーし、きっとこれ、夢だな。 押し倒されてるうえに大好きとか言われて、き、き、キスまでされてるなんて、夢じゃないとありえんよな。 覚めるな覚めるな、覚めないでくれ! 「谷口、んなとこで寝てたら風邪引くぞ」 「大丈夫ですか?」 夢を見ていたら、キョンと古泉のバカップルに起こされた。 なぜか俺は、学校の階段の踊り場で寝ていて。 古泉に心配されたのも無理もない。 俺の目は涙らしきもので濡れていたから。 いい夢、見たはずなんだけどなー。 絶対忘れたくないくらいの、熱い夢を。